アンコール北方85㌔に「幻の王都」あり
アンコールワット北東85㌔の地に巨大なピラミッドを持つ遺跡群が密林に埋もれている。長年の内戦の傷跡からかつては遺跡周辺には多くの地雷が埋まっており、陸路で辿ることは長い間、困難であった。 ただの一度、アンコールの地を離れたアンコール王朝7代目の都、「コー・ケー」がその地である。
アンコール王朝6代目から権力を簒奪したジャヴァルマン4世(在位928~942年)の根拠地であったコー・ケーが、それ故に王都となった。わずか14年の在位であったが、旧王都アンコールに対抗するかのように王都の整備が行なわれ、巨大な階段状ピラミッドやこれまたひと際大きいリンガ(シヴァ神の象徴)安置する祠堂群、大胆動きのある丸彫の彫刻群(コー・ケー様式)には新興の息吹がうかがえる。
今世紀初頭まで、コー・ケーは僻遠の地

世界がミレニアム(世紀末)と騒がれた2000年頃、NHKテレビでコ・ケー遺跡が放映されたことがある。当時は陸路が困難で、取材班は軍のヘリコプターを使ってその地に向かった。瓦礫の山のようになった遺跡の石塊を登り降りし、潅木の絡み合いを山刀で切り拓きながら進むと、突如、眼前に巨大な岩山のようなピラミッドが出現する。それは、当時、一部の専門家にしか知られていなかった幻の都コー・ケーの遺跡だった。
簒奪者(さんだつしゃ)ジャヴァルマン4世

アンコール王朝7代目にあたるジャヴァルマン4世(在位928~942年)は、アンコールの地から遠く離れたコー・ケーに都を移した。その後、都は再びアンコールの地に戻り、2度と離れる事はなかった。この歴史的な出来事は、わずかな石碑が語るだけで、その詳細は謎に包まれている。
アンコール東北のクーレン山でジャヤヴァルマン2世が古代インドの世界観に基ずく「宇宙の帝王=転輪聖王」として即位し、輝かしいアンコール王朝の創始したのが、802年。この以後、王とその王国は、シバ神の保護下に置かれ、山頂寺院にはシヴァ神の象徴である黄金のリンガが天空に輝いていたという。

3代目のインドラヴァルマン1世(在位877~889年)はアンコールの東南15kmの地・ロリュオスに中心寺院として山とその山頂寺院を象徴する階段式ピラミッドである「バコン寺院」を造った。その後、歴代の王たちは即位するや、階段式ピラミッドの寺院をつくり、シヴァ神を祀るとともに自らも神と一体化しようとした。それが今も残るプノンバケン、ピミアナカス、パプオーン、タ・ケオ等である。それらは、平地型寺院遺跡(タ・プロームやバンテアイスレイ等)とは明らかに区別されている。そうしたなか、アンコールワットは、スールヤヴァルマン2世(在位:1113-1150年頃)がビシュヌ神に帰依し建立したもので特異な位置を占めている。が、アンコールワットの三段の基壇と高くそびえる中央祠堂群を見るに、これもまた、神との一体化を象徴する階段式ピラミッドの一つの変容と考えられる。
4代目ヤショーバルマン1世(在位889~910年)は、プノンバケンに中心寺院を造り、その周囲を方形の堀に囲まれた都城とした。これ以後、アンコールが王朝の地となる。王の死後、その息子2人が相次いで王権を引き継ぐ。その時、アンコール東北の高原状(平均高度200m前後)台地が広がるコー・ケーで隠然たる勢力をち、睨みを利かせていたのが、即位前のジャヤヴァルマン4世(在位:928-942年)だった。彼はアンコールの兄弟の王たちの母方の叔父に当たる。彼が即したのは928年であるが、既に921年にコー・ケーに王城を造り、自ら王を名乗った。ここに二重政権が並立する。そして928年、アンコールの王が死ぬや、アンコール王朝を受け継いだ。彼の即位について、その詳細はわかっていないが、その唐突なコー・ケーへの遷都は、王位の継承がけして平穏なものではなかったことを物語ってはいないだろうか。彼は、王位の正統から権力を簒奪(=横取り)した者ではないだろうか。それが、コー・ケーの地を動かなかった理由であろう。



高みへの憧れか、あくことのなき権力への意思か
コー・ケー遺跡は、他のアンコール遺跡群と同様に都城・貯水池・寺院地区の3点セットから成っている。とは言え、貯水池(バライ)は、南北約1000m・東西500mほどで、規模は小さい。また、寺院の多くは、けして規模の大きなものではない。が、中心寺院・プラサット・トム(大きな寺院の意味)の境内
の姿、ここにしかない特異な様式に思える。約20m幅の堀と周壁に囲まれた祠堂群の奥にさらに周壁に囲まれた巨大な5段の階段状ピラミッドが築かれた。ピラミッドの最下段が長さ60m前後に達し、最上段の高さは35m程で、さらにその上に「バコン」遺跡に見られるような中央祠堂が建てられ、それを含めれば建立当時は50m前後の高さになると推定される。また、ミラミッドを囲む周壁の西北部、わずか15m程の距離に高さ10m程の小山があり、「象の墓」と伝えられているが、自然の丘とは思えない地形である。

ピラミッド最上段の祠堂には、王のリンガ=トリブヴァネーシュヴァラが
納められていた
ヴァネーシュヴァラとは、「最高神」の意味で、死後にシバ神との一体化を願ったものである。


コー・ケー遺跡を他の遺跡と区別させる特色は、何よりもピラミッドとその中央祠堂に納められたリンガの巨大さにある。現在、ピラミッド最上段の中央祠堂は跡形もなく、リンガも失われているが、堂宇を支えていた力強い丸彫りのガルーダ像が東面に残る。リンガの巨大さを想像させるものとして、貯水池の北東にリンガを祀った3つの祠堂が残っている。プラサット・リンガといわれる祠堂には、どれも大きなヨニの中央に直径70cmに及ぶリンガ納められており、ヨニからは堂外に水を流す口が設けられている。
王の神との一体化への強い願いが天上を目指し、リンガの巨大化に至ったことが読み取れる。このことは、アンコールの地に対抗して、あえてコー・ケーを王城としたジャヴァルマン4世の強い意志の現れではないだろうか。
バロックな魅力 コー・ケー -辺境こそ、活力の源か-


ジャヤヴァルマン4世の死後、その子・ハルシャヴァルマン2世(在位942~944年)が王位3年の短命に終わるや、王位はアンコール出身のラーシェンドヴァルマン2世が継承し、都は再び、アンコールの地に戻った。わずか24年間のコー・ケー時代であったが、クメール美術史にとっては、一時期を画する「革新」の時代であった。



今も、プラサット・チェン遺跡には、シバ神と見られる胸部が放置されており、また、プラサット・トム遺跡の祠堂の一つにはシバ神と思われる腕と足の一部が残されている。プラサット・トム遺跡の楼門・回廊に優美さには欠けるが、活力あふれる石組みや力強さを見せる連子窓等に大きな良質の砂岩が使われれている。また、他の祠堂群の多くはラテライトやレンガが多用されているが、装飾部には砂岩が使われ、後のアンコール王朝最盛期の建築への移行もうかがわれる。

プラサット・ネアン・クマウ(黒い貴婦人の寺院)と呼ばれる遺跡は、祠堂を構成するラテライトの表面が黒ずんでいることから、そのように呼ばれていると地元のガイドは言うが、この寺院に納められていた女神像に由来するもののように思える。

女神像は、プノンペン国立博物館が所蔵する名品の一つで、頭部と両腕が失われているが、上半身は豊かな胸をあらわした立像で、その表面はつややかに磨かれた濃緑色に輝き、「黒い貴婦人」の名にふさわしいものである。腰下を覆う巻きスカートには、前時代のプノンバケン様式の特徴であるきめ細かいプリーツ状の襞が装飾されている。が、コー・ケー時代を前時代から画するのは、丸彫り彫刻の巨大化とその動的な姿態にある。それは、クメール美術が既に完成期に入り、成熟すると共に様式化した停滞をももたらした時期でもあった。そこに一陣の風を吹き込んだのがコー・ケー様式であった。密林に埋もれてか
ら1000年弱、崩壊、盗掘にも関わらず、今も残る優れた作品は国立博物館に保管されている。その代表が、「踊る女神」「闘う神とアシュラ」「争う猿」等の動きのある力、人間的な微笑み、やわらかな肉付きの姿態をみせる像である。あたかも、ルネサンスの爛熟期に辺境であるフランスで花開いたバロック的な展開を見る想いである。
コーケーへの道
アンコール地域からコーケーへのは、先ずバンテアイ・クディ、スラスランの少し南、近年補修されたバッチュム遺跡の南側の都城アンコール・トムの南門の堀手前から古代の王道がチャウスレイ・ビボール遺跡を経て北東のベンメリア遺跡に伸びていた。さらに王道ベンメリア遺跡西端を北に向かい、クーレン山東麓に当たるアンコール期のの砂岩切り出し場を経て、やがて東北に向かう先にコーケー都城があった。


現代では、シェムリアップの街から国道6号線を東に進み、ロリュホス遺跡群を先、左手に市場がある集落を左折してベンメリア遺跡、さらにコー・ケー遺跡に到るのが一般的な行程です。現在はコー・ケー遺跡まで道幅が拡張され補修されたお蔭で車で2時間弱になりました。2006年当時は、ベンメリア遺跡から先は赤土の道(かつての王道)で雨期の訪問は困難でした。
*参照:下記の①、②の文をクリックしてください。
① DisCover Asia in Cambodia #2(No.2) 207年3月発行 特集「とことんアンコール 幻の都」
② アンコール紀行2=A 簒奪者(さんだつしゃ)の都:コーケー 地図編