特集 クメール源流紀行 世界遺産:ワット・プー No.2 パクセからワット・プーへ

                           

2018年03月13日

 

左:パクセー市場で客待ちするサイカー。右:パクセー市内のコロニアル建築ー中華商

北から南へ、最後の主要民族の移動:ラオ族

巻スカートの女性。メコン川の渡し船。チャンパサック地方。

クメール揺籃の地:チャンパサック

ラオ族がこの地に進出するより遥か昔、2~3世紀頃、クメール民族は現在のタイ北部のチャオプタヤ流域からムン川渓谷を伝ってメコンに到達し、メコン流域のチャンパサック付近に稲作*を拡げ、5世紀の入るとブラ(城塞都市)を造り、国家としての形を整え始めた。そしてこの城砦はメコンに面する港市でもあった。当時、カンボジア南部にはバー・プノンを王都とする扶南の最盛期でクメール民族の建国期は扶南の属領扱いであったようだ。
6世紀に入るや徐々に力をつけてきたクメール国家・真臘(中国史料名、チェンラ王国)は数度の征討を経て扶南を圧迫し、その王都をアンコールボレイに遷都させるに到った。クメール国家の扶南への勢力浸透がメコン川を下る形で行われたことは寺院遺跡の分布よりわかる。遺跡の多くは東南アジア史を特徴づけるブラ(城砦都市)*で、水路は陸路よりはるかにその運行・運搬能力で容易なことから港市の形態をとる。また、都市の中心部にヒンドゥの神々の宗教施設を設けることは想像に難くない。クメール民族にとっては、扶南を圧迫するとは何よりも普遍宗教・ヒンドゥの神々とそれに伴う先進文化・技術の吸収の過程もであった。そこにはインド伝来の灌漑技術や牛車、牛耕も含まれる。現在、この地のメコン両岸は雨期の増水期でも水面より5m程高さにある河岸段丘、首都ヴィエンチャンの水位は年に10m程の差である。メコンデルタ(三角州)のように水稲を河川の増減水に頼れない。先ずは、山麓に湖沼が散在する右岸の段丘が開けたようだ。
7世紀前半、扶南を併合した真臘の王イシシャナヴァルマンは王都イーシャナプラ(サンボープレイクック遺跡)を造営し、ここにバライ(大規模貯水池)が登場する。王都に隣接するヒンドゥ寺院地区は参道によってセン川畔の港市とつながっていた。ここにアンコール王朝を特徴づける三点セット(石澤良昭氏の説―都城、寺院地区、バライのセット)の原型がある。バライの灌漑は段丘部の水稲耕作を飛躍的に拡げたに違いない。
*稲作の伝播:東南アジアに伝播した稲作は初め雑 穀や根菜を伴う焼畑(畑作)であった。タイ東北 部のバンチャン遺跡はユネスコが「バンチャン遺 跡は、紀元前5世紀頃の人間の文化、社会、技術 の注目すべき現象の中心」と評価した世界遺産、 稲作や豚などの飼育が行われ、渦模様を特色とし た土器、ガラス、青銅器・鉄器なども発見されて いる。紀元前1000年頃からの寒冷化は人々の低 地への移動を促し、やがて水田耕作が始まった。 その水田も初期は谷間の棚田であり、やがて平野 部に拡がる。
*ブラ(城砦都市):東南アジア史を特徴づける都市。多くは港市と結びつく。

左:一部ではASEAN最強ビールとも詠われるビアラオ。右:カエルの串さしの薫製

メコン両岸の経済格差

現在のチャンパサック地方を見るにメコン右岸は見事な水田地帯が広がる。村々も清楚な印象があり、小奇麗な家屋や庭の佇まい、人々の服装に余裕が見られる。一方、左岸は横長のラオ族の高床住居が見られるが、未だ森に覆われるところも多く集落は街村なしても小規模で、開拓地の感がある。右岸、左岸には明らかな経済格差がある。思うに2―3世紀にこの地に進出したクメール族は5世紀には早くもメコン河岸に城砦都市を設け、遺跡の分布より解るようにやがて左岸にも耕作地を拡げていったが、この繁栄も14世紀のアンコール王朝の滅亡によって終わりをつげたのであろう。北からのラオ族の進出によって右岸はクメール族からラオ族に取って代られ、左岸のクメール族の耕作地はいち早く放棄され長く森に覆われたようだ。左岸の再開拓は早くても20世紀前半を遡らないであろう。

リンガ状突起を頂きとする聖山プー・カオ。手前の釣鐘状の山をヒマラヤの聖山カイラーサになぞる人もいる。  ー写真:三輪悟氏提供ー

世界遺産:ワット・プー

パクセからワット・プーへは、幅1㌔超の川面を跨ぐメコン橋(日本の援助で建設)を渡って右岸に出る。渡った橋の左たもとの小山は景勝地、山頂近くにラオス様式の仏陀像があり、夜にはライトアップされる。この仏陀像付近から雄大なメコンの流れとパクセの街が俯瞰できる。道を真っ直ぐ進めばタイへの国境ゲート・チョンメック(Ching Mek)に至る。ワット・プーへは橋から2.5㌔程、左折の道に入り南下する。対向車も少ない有料道路で仏陀像のある小山の西麓を迂回し、やがて前面を遮る山塊を見る。道は左に迂回しメコン河岸に出て南下する。

聖山プー・カオ:特異な山容に神を見る

視界が一気に開けるやそこがチャンパッサク平野、右手の稜線を連ねる山塊に特異な山容を見る。ひときわ高い峰、他を圧するように山頂は釣鐘状に盛り上がり、その頂に突起を見る。天を突くその山容、この地に進出したクメール族には神々しい聖なる山(プ-・カオ)*であったろう。山麓には湖沼が散在し鳥たちが舞う。 ヒンドゥの神々を受容する以前にこの地は聖なる地であったに違いない。聖山プー・カオがリンガパールヴァータ(Lingaparvata)と呼ばれ、山自体がシヴァ神として仰ぎ見られてメコンがガンジス河になぞられるのは、プー・カオの東麓、メコン河岸に三方に濠を穿ち、河岸を港市とする城砦都市シュレスタプラ(Shrestapura)の成立を待つ。この都市は5世紀、クメール族最初の王都である。当時、扶南の属領であったこの地に土着の信仰を圧倒する普遍宗教・ヒンドゥの神々がやってきた。

*プー・カオ:カンボジアのタケオ南郊、ベトナム国 境近くにプノン・バヨーン・カオという頂上に古代 寺院の祠堂を持つ山がある。この山もまた、頂上に リンガ状の岩塊を突起させる山容である。「カオ」と いう名付に注目し、ワット・プーの東、メコン右岸 にワット・ムアン・カオという地名を取材前の調べ で見つけ、古代遺跡ではないかと見当をつけていた。 現地取材でここが真臘最初の王都:シュレスタプラ (Shrestapura)であったことを確認した。なお、プノン・バヨーン・カオについてはD.A.C.No.8 「リン ガ山に屹立する祠堂 プノン・バヨーン・カオ」を 参照。
(http://discovernewasia.com/に電子本にて掲載、バックナンバーはNew Sai Travelプノンペン事務所にて現在無料配布中!)

晴れれば釣鐘状の山もくっきり。真っすぐ伸びる参道の両側は聖池。ー写真:三輪悟氏提供ー

ワット・プー:都城とセットされた四つのバライを持つ壮大な寺院遺跡であった

左右に広がる水田地帯、道はやがてT字路に到る。左折すれば、王都シュレスタプラへ、右折すると世界遺産ワット・プーに至る。道の突き当りが世界遺産保護区域、右折して左手のバライ(大規模貯水池)手前の駐車場に乗り入れる。ここでチケットを購入。綺麗に整備された敷地を歩み、博物館前でバライ北側のテラス下まで電気自動車に乗る。観光客が少ないとは言え、アンコールワット前の雑踏や猥雑さがない。何よりも世界遺産に警官の制服を見ない。後に見るが遺跡の保存状態の良さに驚く。ゴミの無さやまとわりつく地元の民、勝手にチップ目当てで案内を始める子供たちもいないがの良い。

寺院手前に二つのバライ(大規模貯水池)*があるが、この地を調査したフランス極東学院の学術書によれば、三つのバライが並んでいた。また、1930年代の地図を見るに北のバライは水田と化しており、後に復元したものである。テラスの残るバライが中央バライで、南にもう一つバライがあったが復元されていない。
10-12世紀の増築とされるワット―・プーは、南に設けられ新たな都城に濠と城壁によって取り込まれていた。都城の中心部北にも寺院が造営され、その参道先に四つ目のバライが設けられていた*。ワット・プーの南宮殿後ろの道を南にたどれば約1㌔先に濠に囲まれた森(宮殿か寺院遺跡)を見る。ここで道は途切れるがその先1.3㌔には砂岩造りの寺院遺跡が残る。  これらを繋ぐ道こそ、バン・タット、プラサット・プラム・ロンへつながり、やがて西に向かい、ネアック・ボアス、コーケーを経てアンコールの都城につながる王道であった*。
ワット・プーの参道に直結する中央聖池(バライ)の西側のテラスは、ラテライトの切り石を基礎に砂岩を積み上げて2段基壇とし、中央部から東西の階段、南北の端にも階段を設けている。その長さ南北約130m、張り出し部は中央、南、北の三か所、最も張り出す中央部は30m程、実に堂々たるものでアンコールのスラ・スランや大プリアカーンのバライに面するテラスの規模を超え、これほどの保存状態の良さはアンコールトムの「王のテラス」に匹敵するが、装飾の浮彫は見当たらない。

テラスに立って西を望めば、瑞々しい緑に包まれたワット・プーが望まれる。参道は真っ直ぐ背後の山稜へ向かい山麓で迫り上がる。背後の山稜の右手奥、峰伝いの切り立った山稜をシヴァ神の故郷・ヒマラヤの聖山カイラーサになぞらえる人もいる。聖山プー・カオはさらに峰伝いの奥にあるが、ここからでは見えない。盛り土の参道は約260m、両側にはリンガ型の石柱飾り(日本なら石灯籠か)並び、左右の窪地には北側に三つの聖池、南は一つ聖池の跡が確認されている。
*バライ:大規模貯水池、聖池:寺院境内の日常沐浴用の池 と本誌では記述上区別した。
*博物館掲示の地図を参照。博物館は電気自動車発着場所横 にあり、ワット・プーの遺物を展示。

ワット・プー:威容を見せる北宮殿
ワット・プー:北宮殿正面回廊とコの字形の回廊はつながっていない。

 

ワット・プーの破風:聖牛に乗るシヴァ神と妃ウマーのレリーフ

南・北のラテライト色の宮殿に緑が映える

第二参道:リンガ状石柱の外側には南・北宮殿から続く内側を吹き抜けとした回廊があったが、崩壊している。

参道は一段高くした基壇に突き当り、左右の赤褐色の宮殿が背後の緑から浮かび上がり、威容ともいえる姿で迫ってくる。中でも参道に向き合う回廊は南北共にひときわ大きい。参道に面する南・北宮殿の回廊はコの字型の回廊と連結せず、独立している。また、コの字型の回廊はラテライトの堅牢な壁を巡らせるが参道に向く回廊は壁も含めた砂岩造りで規模も大きい。回廊中央部に参道に向けて階段付きの二段重ねの屋根を迫り出す入口を持つ。当初、現地に来るまでは矩形の回廊に囲まれた遺講に宮殿という名付けに違和感があった。こうした名付けを他の寺院遺跡に見ない。神々を祀るには煉瓦や石造りの祠堂、人の住居は王宮であっても木造であった。それ故に古代遺跡は石だけが残ったのである。矩形の内部は南北共に平坦地、極東学院の調査でも祠堂に類するものは見つかっていないため、他の回廊と画する砂岩造りの回廊と併せて宮殿址とみたのだろう。独立した回廊の両端は偽扉で閉じる。迫り出た入口や偽扉の部分には、柱、眉庇(リンテル)、破風等にびっしりと浮彫が施されている。いずれも良質の砂岩の用い彫りが深く鮮明である。浮彫の意匠(デザイン)の多くは「様式化された唐草文様や蛇神(ナーガ)が施され、中央に蹲るカーラに乗る宮殿(花頭窓のようなアーチ状の屋根を持つ)に坐す神像の姿」だが、北宮殿・独立した回廊の東端の偽扉の破風には、聖牛ナンディンに乗るシヴァ神とその妻ウマーの浮彫があって印象深い。二人を覆う屋根のような意匠は神々の宮殿、それはイスラム寺院のアーチを重ねるドームを思わせる。コの字型の回廊は、その端に開口部を設け、眉庇や破風に浮彫が施されている。

<No.3へ続く>

Follow me!

インドシナ3国、タイ、ミャンマーへのご旅行をお考えの方は

New Sai Travel